書籍「仏教思想のゼロポイント」と、実際の瞑想体験

先日、千葉で行われている10日間のヴィパッサナー瞑想を体験してきました。
参加の動機となったのが、知人から紹介してもらった『仏教思想のゼロポイント』です。

ここでは、本書がどのように私を動機付けしたかと、そのうえでの振り返りを書いていきたいと思います。
また、ヴィパッサナー瞑想とは何か、またコースの内容自体は、別の記事で触れる予定です。

本の内容

本のタイトル「仏教思想のゼロポイント」とは、ブッダが悟った(解脱した)その瞬間のことです。ブッダはその悟りについて布教していくので、仏教思想が開始したまさにその地点のことを指しています。ブッダが到達した解脱とは本来どのような体験であったかという説明を、現代日本の仏教に対する誤解を批判しながら展開していきます。そして、何故ブッダは解脱後に死なずに教えを広めたのかの考察へと繋げます。

本書は帯の「日本仏教はなぜ「悟れ」ないのか」が象徴するように、日本の仏教観への批判的側面が多分にあります。例えば「絶対にごまかしてはいけないこと」として、ブッダが説いたのは「人としての正しい生き方」ではなく、解脱し涅槃に入る方法であり、それは「人としての生き方」を破壊するものでさえあることを明らかにします。また、ブッダの教えにおける評価基準は、涅槃どれほど近づいているか(後世の言葉では無漏善)であり、一般に想起される善(有漏善)ではないことも指摘します。
また、「ブッダは輪廻を解かなかったはずだ」という(和辻哲郎らの)主張を、輪廻とは実体的な「我」が転生していくという神話的物語を指すのではなく、精神的・物質的なプロセスが連綿と続くという概念自体を指すのだを確認しながら退けます。

そして、第五章、第六章にて、ブッダが体験した、仏教思想のゼロポイントとなる解脱、そして涅槃の性質に迫ります。そしてこれが、私がヴィパッサナー瞑想に参加した動機へと繋がります。

ヴィパッサナー瞑想に参加した理由

さて、本書の中で非常に重要な位置を占めるのが、第六章「解脱・涅槃とは何か」における、「解脱」そしてそれによって至る「涅槃」の説明であり、それこそが私をヴィパッサナー瞑想に駆り立てたものでもあります。

我々(日本人というより、大乗仏教圏と言っていいでしょう)は「解脱」「涅槃」というと、ほとんど象徴というか、神話、ややもすれば方便のような印象を抱くのではないでしょうか。唯一ブッダのみが達成したものであるとか、大宇宙と合一するとか、弥勒菩薩が56億7千万年後にそこに至るとか…。そもそも解脱に向かって修行している「菩薩」が既に神仏であり、現実世界の我々とは大きな距離があります。少なくとも実際に体験できるものとして認識されてはいないでしょう。本書でも触れられているとおり、自分は解脱したという人間も日本にはテロリストぐらいしか存在しません。

しかし、本書ではそういった解脱観を否定し、誰しもが体験可能なものだと述べます。現代でも非仏教徒を含む多くの人間が、その体験をしたと証言し続けているものであり、日本を含む世界各地にある瞑想センターに行けば、少なくとも試みることが出来るものだと言っているのです。この瞑想センターとは、別記事で詳しく書くつもりですが、原始仏教の、つまりブッダが説いた解脱に至る瞑想法をそのまま実践している場所と言ってよいです。

このことが私に「解脱という体験の片鱗を見てみたい」と思わせました。巷間で言われている瞑想の効果(集中力がつくとか、脳が大きくなるとか)や、精神修養といった副次的効果も期待しつつも、一種の好奇心によって突き動かされたわけです。

実際に体験してみてどうだったか

得ることが出来た実感

前述したように、ブッダの教えの評価基準は、涅槃にどれだけ近づいているかということで、コースでは「平静」という言葉が使われます。「この瞑想におけるただ唯一の基準は、どれだけ心が平静であるかどうかです」と、それ以外のこと(例えば瞑想自体の技術とか)に執着しないよう、要所々々で釘を刺されます。そしてその為に、平静がどのようになされるか、というより平静をかき乱すものが如何に発生するか、そしてそれを消すにはどうすればいいかを(つまり十二縁起や四諦を、平易に)説かれ、そのための瞑想法が教えられます。
正直、その論理展開とそれに紐づく実践の方法は、とても2500年前に考えられたとは思えない、凄まじいものです。勿論その方法が所謂西洋科学的ではないにせよ、精神の話として「確かにその通りだ」という納得感があり、且つ実践によってそれが体現されることで、その「正しさ」が今なお受け入れられているというのが理解できます。つまり、コース内容を素直に実践すれば涅槃に、すなわち「平静」に近づいていることは実感できるでしょう。

しかし、近づくだけでなく、涅槃という地点に到達する、つまり解脱そのものとなると、やはりそう簡単にはいきません。
実際、どれほど涅槃に近づいたとしても、時間が経てば渇愛や嫌悪は発生、蓄積するため、定期的に瞑想を行うことが望ましいとされています。どれほど洗濯してきれいにしても新しい汚れは発生する、というイメージです。
ところが、解脱という地点は、本書の言葉を借りると、認知を根本から変革する「決定的で明白な実存の転換」として描かれます。どんな素敵な異性を見ても、それまでと同じには写らない(そのように考えることができる程度でなく、本当に認識が変わっている)という地点です。
そして、勿論10日間瞑想した程度の私には、そのような認識の転換は起きていませんし、そのようなことが起きたと言っている参加者は、私の知る限りいませんでした。また著者は、5ヶ月間ミャンマーの瞑想センターで修行した経験がありますが、(明確には書いていませんが)解脱に達してはいません。

解脱の実現性について

しかし、ではやはり涅槃は象徴、漸近することしかできない地点でしかないのかというと、やはりそうではないというのが、本書が繰り返し唱えていることです。またコース中にも、解脱という経験は間違いなく(ということもわざわざ言わないほど、当然のものとして)到達できる地点として語られます。また、ミャンマーの瞑想指導者マハーシ・サヤドー著「ヴィパッサナー瞑想」にも、(無常・苦・無我を経験的に理解したとき)1か月、人によっては七日で涅槃に到達することが可能と、かなり現実的な日数が書かれています。

解脱が「体験」である以上、つまりクオリアとして伝達不可能な性質を有する以上、問題は、涅槃が実在するかどうか、もしくは妄信であるか、では当然ありません。「伝達不可能だが、経験した者同士で認識の共有は可能であり、同じプロセスである程度再現が可能」な、この解脱という体験とはどのようなものか、ということです。
そして同様にクオリアであるからこそ、非解脱者がその性質を知ることは究極的には不可能です。翻せば、涅槃を知りたいのであれば実践に拠るしかないということあり、経験による知恵の重要性は、仏説でもコース中でも何度も説かれます。

とはいえ、それを体験した者が言葉で説明する試み自体は可能です。そして本書では、ウ・ジョーティカ氏の言を引用しています。氏は解脱を、言葉を超えたものとしたうえで、「とても重い物を引っ張っていて、ロープがプツンと切れたようなもの」と語っています。
ところで、本書において、現代も解脱者は出続けているという割には、実際触れられている個人はこのウ・ジョーティカ氏だけです。「~なので解脱経験は実在すると考えるのが自然だ」という理論展開だけでなく、現代において解脱している人物の描写がもっとあれば、この本の説得力は飛躍的に高まったように思います。

トリップと解脱について

ところで少し話は変わりますが、認識の決定的な転換がされた人を日本で見つけるのは難しいでしょうが、瞑想でトリップ的な経験をした人には割と高い確率で会うことが出来るでしょう。そういった体験についてはコース中にも何回か触れられ、「神の声を聴いた」とか「体が溶解した」という生徒はよくいる、と語られます。
しかし、これは強い集中力によって割と簡単に起きるもので、それが解脱でないことは、殆どの場合次の瞬間に渇望(例えば異性への欲求)を覚えてしまうことで、簡単に証明されてしまうでしょう。

しかしトリップが解脱と全く無関係かと言うと、本書はそうではないと考えます。悟りによって得られる智慧(三明)が思考を超えたものであることや、既成観念の「強引な」乗り越えが必要であることを理由に、強い集中力による意識変成は解脱の前提であり随伴するものであると考えるべきとするからです。
解脱がそのような「直覚知」としてやってくることが読み取れる例として、仏弟子のアナンダ(瞑想後、横になった瞬間に解脱)や、シーハー比丘尼(首をくくろうとした瞬間に解脱)を挙げていますが、強い集中や極度の緊張、もしくはそれが途切れた時に、理性や意思の範囲外のものとしてやってくるものだと考えるのが自然だということです。

つまり、ヴィパッサナーを継続し、向かい続けていれば、ある時直覚知としてふと訪れるものだと言えます。涅槃はそこに向かうゴールでありながら、同時にそれを求めた瞬間に渇望が生じることでそこから遠ざかるというジレンマがあり、コース中でも、解脱に向かうのはいいが、その体験それ自体に渇望を覚えてしまうのは本末転倒であると注意されます。その性質を理解して舵取りをしつつも、固執せずに「待つ」ような姿勢であることが求められていると言えそうです。

また、ユングのシンクロニシティやコンステレーション、集合的無意識などの概念を援用することは可能かもしれません。 例えばUFO目撃という体験は、UFOの存在とは独立して観察すべきであるというように、体験それ自体ではなく、その認知を引き起こす意識構造の方に意味があるのではないか、と考えることはできるかもしれません。
しかし、前述したように、瞑想者達は他の(解脱以外の)意識変性に対しては意識的に距離を置いており、あくまで他の体験と解脱を区別していることや、不可逆的な認識の転換を与えるという解脱の性質から、少なくともそのまま当てはめることはできないものだと思っています。このあたりは、他の記事などで折に触れて考えていきたいと思っています。

おわりに

以上、自分の体験を踏まえ、本書の指し示す涅槃の性質を再確認してみました。

10日のうち、3日半はヴィパッサナー瞑想ではなく、アーナパーナ瞑想という「準備」にあてられます。また、ヴィパッサナーの論理的背景は講話によって説明されますが、当然1日目に全てではなく、順を追って説明されていきます。つまり、その瞑想法がどのように涅槃に至るものなのかを理解しながら、ヴィパッサナーに集中する時間は、事前知識なしに初めて参加する場合は、3、4日くらいになります。

本書や他のソースから、解脱という体験に惹かれて参加するとしても、その絶対的な地点に固執することは賢明ではないでしょう。しかし少なくとも「向かっている」という感覚、実感は確実に得られると思います。それはとても素晴らしい体験になるはずです。

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